鹿児島の温泉文化とともに120余年

鹿児島のシンボル的存在・桜島。竹迫温泉は、その対岸約4キロに位置する鹿児島市にあります。源泉数は280以上で県庁所在地としては日本一!
実はこの「銭湯」という言葉、地元ではあまり馴染みがありません。というのも公衆浴場のほとんどが天然温泉。市民にとって銭湯といえば温泉で、わざわざ足を伸ばさずともご近所で味わえる身近な存在なのです。 ほとんどが5時台に開店するのは、朝の出勤前にひとっ風呂という人が多いから。昼間の憩い、夜1日の疲れを癒しにと、日々の生活が温泉とともにあるのが鹿児島流。竹迫温泉はそんな鹿児島市でもっとも古い銭湯として、この地の温泉文化の歴史とともに歩んで参りました。

明治25年、竹迫湯にはじまる


昭和初期の温泉掘削の様子

当温泉は明治25年(1892)、沸かし湯「竹迫湯」として創業しました。「鹿児島市内、おそらくどこを掘っても温泉が出る」と言われるほどの地の利に恵まれながら、まだ掘削技術が乏しく当時のほとんどは沸かし湯によるもの。 昭和30年代半ば頃、技術が進み温泉を掘り出したのが温泉天国の始まりでした。 当温泉ではそれに先立ち、昭和5年から昭和7年に完工。大きなやぐらを組んで行う上総掘り(かずさぼり)を用い、温泉湧出掘削深度は尺貫法で1800尺(約545m)あったそう。その貴重な掘削菅跡が現存しているのは市内で当温泉だけのようです。

番台でシェークスピア?!主人:平瀬 實武


平瀬 實武

掘削の成功で、屋号を沸かし湯の「竹迫湯」から「竹迫温泉」とした主人・平瀬 實武。串木野市長、鹿児島市長を歴任し、鹿児島市長時代は、当温泉の主人として番台に座る時間も大切にしていました。番台でシェークスピアの原書を読む姿は今でも有名な語り草。宅地造成や下水道整備、ゴミ収集の定時化など市民生活に直結した政策は、人々の日常に寄り添う姿そのものだったのかもしれません。 沸かし湯から温泉への転換をすすめる温泉掘削推進活動も行い、「鹿児島温泉銭湯文化の父」との誉が聞かれることもしばしば。實武の在任中に制定された鹿児島市民憲章にうたわれる、市民が力をあわせる大切さや、訪れた人をもてなす気持ちは、当温泉のみならずこの地に脈々と継がれていることを嬉しく思います。

創業から120余年湯を注ぎ続ける吐湯口


創業から湯殿を見守り続けてきた吐湯口

当温泉の名物といえば、西洋風の吐湯口!なんと創業から120年余り、湯を注ぎ続けているのです。第二次世界大戦末期、ここ鹿児島も激しい空襲を受けました。当温泉の建物も焼けてしまった中、この石造りの吐湯口だけが転がっていたそう。焼け野原で露天風呂にして入ったという逸話がお客さんの間で語り継がれています。多くを失い激しい苦しみの中、こんこんと湧き出るお湯。吐湯口はまるで守り神のように寄り添ってくれていたように思います。

人とのふれあいを大切にした實武


木造、瓦屋根に青い壁。レトロな佇まい

当時は一帯が焼け野原となったものの、戦後まもなく再建。瓦屋根の木製2階建、青い壁が目を引く建物でした。2階には30畳ほどの広間があり、お客さんが食事をしたり、舞台で三味線を弾いたりとにぎわったとか。實武も、連れ合いに先立たれた人たちを集めた「独り者の会」を開き、社交場として人々のふれあいを大切にしていたそうです。解体時にはたくさんの座布団と100個以上の湯のみ茶碗がでてきて、当時の様子を伺い知ることができました。

創業120年の節目に新たな一歩

2012年5月、おかみの平瀬 葉子がポスターを貼ろうとしたところ、壁がへこみ老朽化が発覚。すぐに建て替えた方がいいと専門業者の助言があり、一度は廃業も考えたものの、県外に住む息子の跡を継ぐとの言葉や、娘・みやびの描いてくれた新しい温泉の絵に背中を押され、続けていくことを決意しました。 リニューアル中の2012年11月17日。實武の誕生日に創業120年を記念して「竹迫温泉銭湯祭り」を開催しました。「改装中で銭湯には入れないけど、心がぽかぽかとなる催しを!」と、いろいろな屋台に参加してもらったり、音楽の演奏をしたりと多くのお客様と一緒ににぎわいました。


この絵に背中を押されて・・・

2013年1月全面リニューアルオープン

老舗銭湯としてのこれから

創業から120年あまりが迎えられたのも、多くの方との湯縁のおかげさまと感謝いたしております。番台に座り、常連さんとの何気ない会話や、新しいお客様との出会いは私たちの何よりの楽しみです。 これからも先人から紡いできた古き良きは大切にしながら、新しく生まれ変わった竹迫温泉として皆様により愛されるよう精進して参ります。


昔ながらの番台。のれんは祖母の久留米絣をリメイク

今では懐かしい松竹鍵の下駄箱